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2006年08月04日(金)更新

老いの哀しさとありがたさ。脳の脆さと福音。

昨夜、寝たきり状態になってから、ここ何年か
ナーシングホームで暮らしている祖母に会いに行きました。

忙しさにかまけて2ヶ月ほど会いに行ってなかったのですが、
先日お見舞いに行った叔母さんのメールに感じるところがあり、
とにかく会いにいかなくてはと思ったのです。

久しぶりに会ったおばあちゃんは、
またちょっと小さくなったように見えました。

そして開口一番、

「今日は目に見えない犬が、体に乗っかってきて
 一日苦しかったよ」

と訴えました。

それが幻影なのか、現実なのかは、
おばあちゃんにしかわかりません。

何年か前に、はじめてこうした話を聞いたときは、
ちょっとこわかったり、哀れに感じたりしましたが、
今は、普通におばあちゃんの話に乗ることが
できるようになりました。

手や体に触れながら、しばらく話を聞いていると
落ち着いてきたのか、普通の会話ができるようになりました。

でも、今回は、ごく近しい親族の名前を言った時、
思い当たらなかったことがあったので、
さすがに、ちょっと驚きました。

しかし会話をしているうちに、
ちゃんと頭の中でつながったようです。


それどころか、まるで絵が浮かぶような
お話を今回はしてくれました。

祖父がなくなってから結婚するまで、私は
おばあちゃんと一緒に暮らしていましたが、
初めて聞いた話です。

それは、おばあちゃんが大切にしていた
三味線についての話が及んだときに
目が生き生きと輝いたのです。

「あれは、おじいちゃんが買ってくれた
 良い三味線なんだよ。

 お前が買いにいくとまた安いものを
 買ってしまうからと

 定期積金が満期になった時に下ろして
 上等な三味線を買ってくれたのよ。」

まるで、つい昨日のことのように
楽しそうに話すのでした。

祖父の笑顔まで目に浮かんで、
胸がしめつけられました。


今朝、祖母の様子を父に話しました。

その時、父は、つぶやきました。

「人は老いたら、忘れるものは忘れるように
 うまくできているのかもしれないな」

そうか、たしかに何もかも覚えていたら
つらいことばかり思い出して大変でしょう。


今日の帰り道、そんなことを思い返しながら、
いつも愛読している五木寛之さんの連載コラムを開くと、
飛び込んできた文字に、たちまち心を奪われました。

それは、週刊現代の「新・風に吹かれて」という連載で
今回は「余命をエンジョイする」というお話でした。

その中には、こんな一説があります。

「 老いるということは、たしかに無残なことではある。
 心身ともにおとろえて、見てくれも劣化する一方だ。
 病気や、苦痛もふえてくる。老化、高齢化をおそれる
 人たちが多いのも無理からぬことだろう。

  しかし、しかしである。ここで若い世代にぜひとも
 知っておいてほしいことは、老いて楽になることもま
 た決して少くないということだ。いや、もっとわかり
 やすくいえば、老いを重ねるたびに楽になり、生きる
 ことがおもしろくなってくることもある、という事実
 である。」

アンチエイジングよりも、おもしろい年のとりかたを
しようという提言です。

五木さんのコラムに、昨日からの祖母や父の言葉が、
自然に重なっていきました。

若い人の目から見れば大変な「老いる」という現実の
自然な乗り切り方も、ちゃんと神様や仏様は
考えてくださっているのでしょうか。

脳はほどよくスローダウンしたり一部機能停止をしながら、
また時には気持ちのよくなる物質など分泌しながら
最後に止まるその瞬間まで、楽に楽しく動いてくれる。


不思議な名作「アルジャーノンに花束を」をふと思い出しました。

ある日を境に頭が良くなったアルジャーノンと
また頭が悪く戻ってしまったアルジャーノンの
いったいどちらが幸せかなんて命題は、
頭の良い読者の勝手な空想に過ぎないのかもしれません。

ぼけたらぼけたで本人は幸せ。

これが、頭でっかちな私への福音なのです。


久米 信行
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